裁判正常化を展望する私の心的な模索

はじめに

 裁判とは何か。でたらめな判決と感じざるを得ない判決・決定、軽蔑や嘔吐を感じさせる裁判官たちの振る舞いに直面することになったこの数年間を経て、私はこのような、あまりにも基本にさかのぼった問題を自問するようになった。むしろ、せざるを得なくなったといいたい。そもそもこのような自問をなぜ私が行わなければならないのだろうか。率直に言って腹立たしい限りである。日本には多数の法律専門家がいて、彼らは受験を経て獲得した資格によって、手厚い保護を受けている。社会生活を送るときに、誰もが参加しなければならない競争において、少なくないアドバンテージを保証されているのではないか。つまり、私が自問しなければならなくなったこのような問題は、これら専門家たちが、解決しておくべきものであり、納得できる解答を示す準備を整えておいてもらわなければならない。この要求は実に正当であると私は考えている。裁判の実態に向き合ったときに、そこで感じ、認識した不公正、不合理、でたらめ、あるいは不条理が、個別の法令や判例などの水準で調和的に解決できず、司法制度、法曹界のありかたへの見直しにまで考察を進めなければ、納得のいく説明を構想することができないと感じたときには、一体、正義と秩序の護持者のように振舞っているように見える、あるいは少なくとも多くの人々がそのように期待している法曹界の業界人たちは今まで何をしてきたのか、その怠慢に対する憤りは、時に抑えがたいものになるのである。

 私が私生活や自己の人生のかなりの力を割いて、そもそも門外漢としか感じられない裁判のあり方に思いをめぐらせるのは、もちろん私益ではなく公益の目的のものであるが、そもそもその役割を果たすべきであった法曹界の有資格者たちは、私や私の家族にこのような負担を強いたことについて、いつか償いをしてくれるのであろうか。

裁判は必要なのか

 さて、裁判とは何かを考える前に、裁判とは、あるいは裁判所とは何か必要なものなのだろうかという問いが連想される。もっと厳密に言って誰のために必要なのだろうかを考えたくなる。一般的に言えば、存在するものは合理的である。裁判所が存在する限り、全く必要がないということはありえないだろう。まず、裁判所の存在に自己の生活を依存している人々がいる。裁判官、検事、弁護士だけではなく、多数の裁判所職員や彼らの家族たちにとって、裁判は彼らの生活の糧を生み出す源泉であり、裁判所は非常な程度で必要なものである。しかし、裁判所が自分にとって必要なものであるかと問いかけなおすとき、裁判所は必要でもなく、むしろないほうがよいものではないかという結論が導き出される。それは、裁判によって被害を受けたと感じさせる記憶はあるが、裁判によって何かを救われたと実感する経験の記憶がないからである。

 もちろんこれは極論である。公共の機関、施設などが個人に及ぼす利益は間接的であり、誰もがその効用を直接的に実感できるものでなくとも、それらの存在意義が否定されるべきものでもない。だが、裁判所はないほうがよいと私に実感させる現実は、公共機関の存在意義の否定までには結びつかなくとも、その高い程度の誤作動、本来の目的から外れた実態を示唆していると疑うことまでは排除できない、

審判員としての裁判官

 裁判官は審判員である。民事訴訟においては、その意味付けは強い。審判員で連想するのは、野球の球審である。野球のような複雑なルールによって成り立つゲームにおいて、規則を体現する審判員は、野球の試合自身を成立させるための重要なファクターであることは間違いない。難しい判定、ストライクかボールか、あるいはアウトかセーフかによって、ゲームの目的である勝敗が大きく左右され、決定される。プレイヤーはそれぞれに判断するが、ゲームを成立させる審判の利害を超えた中立的な判断に従うことにより、ゲームがゲームになる。審判員もプレイヤーも野球のルールブックに習熟していることは前提条件だが、プレイヤーが最終的に審判員の判断に従うのは、ルールブックの解釈についてではなく、ルールブックに従って導かれる事実の認定である。ただし、野球の場合にはプレイヤーの得失はゲームの勝敗に限られるが、裁判における当事者の得失は、多くの場合において当事者の人生である。

権力行使としての裁判

 刑事事件の場合には、裁判の役割はもう少し強制的である。人間は群れを成して生活する動物であり、実際にはより複雑な社会を構成して生存する生き物である。社会には治安、秩序の維持が必要であり、これを欠いては、人々は安定した生活を送ることができない。犯罪は社会の秩序を脅かすものであり、犯罪を公的に押さえ込み、社会の秩序を維持する機能が必要であり、刑事事件の裁判が最終的にその機能を保障することになるといえるだろう。

 秩序はときに煩わしいものであるが、秩序のない社会がさまざまな弊害を伴っていることは、容易に想像できるし、私は完全な無秩序の社会に住んだ経験はないが、そのような社会での人生は、極度の緊張感、闘争、自衛などを要求されるもののように思え、ある種の恐怖を連想させるものである。社会に、秩序をもたらすものは、それ相応の強制力を有するが、これを権力という言葉で表現するのが適当だと思う。つまり、裁判は、社会における権力の一環として存在しているものであり、裁判所は権力機関として存在している。この裁判所の性質は、野球の球審のような絶対的とも言える中立性を期待されるよりも、抽象的なルールよりも、社会の力関係に影響を受ける世俗的なものであるといえる。

 日本の裁判に関する議論において、法治主義、法の支配とか、あるいは民主主義、三権分立というような概念が不可避的に登場してくる。日本の裁判、裁判所のありかたは、このような原理を建前として、その上に存立しているものである。だから、この事実を前提にして、考察を進めることにしたい。民主主義が他の統治形態よりも有利な制度であるかどうかは、諸説があるが、それについてはここでは取り扱わないし、扱えない。いずれにしろ、人間は全能でなく、人間が案出したどのような制度も完全ではない。裁判の制度に完全無欠を要求するのも過度なものである。民事訴訟や刑事訴訟において、民主主義の原理とたとえば君主主義の原理で、その効果に絶対的な相違が生じると論証することは不可能であろうし、個別には、両者の価値が等価以上ではない状況も想像できるというべきである。

民主主義と法治主義

 ところで、法治主義という概念と民主主義という概念はセットになって語られるような印象を受けるが、両者は互いに依存することのない独立した原理である。法に従うかどうかの前提として、法が妥当な法なのかどうかの判断がなければならない。だが、法は秩序である、その公正いかんにかかわらず、定められた掟として尊重しなければならないという強制的な性格をもつものである。生類哀れみの令であれ、北海道旧土人保護法であれ、審判員たる裁判官は定められた法を無視する立場にはなく、むしろその遵守を強制する立場に立つ。だから、法の支配が民主主義と結びつくためには、法が民主主義的な過程によって決定されるという前提が必要である。しかし、現行の基本的な法令において、民主主義的な手続きを経て成立したものの割合はどの程度あるのだろうか。立法化の手続きは人の一生の長さに比べ、非常に長いスパンを前提にするものであり、法の体系は旧制度から継承した、あるいは日本国憲法のような特別な成立過程をへて与えられた体系を母体にするのであり、民主主義的な意思決定や執行過程がこれを変更していくプロセスは、非常に特別な事例を除けば、個人の短い人生における私的な利害とは別の次元にあるというべきである。

 さらに重要なのは、法の支配には法の解釈、運用が絶対的に伴わなければならないという事実である。日本の法曹界の主体を形成する裁判官、検事、弁護士は、実質的には民主主義の手続きとは隔絶された試験や任命という過程を経て誕生する。しかし、彼らが司る法が、民主主義の立法府によって作成され、彼らが法にしたがって権力を実施するということが、民主主義的な司法であるという意味づけの根拠になるのである。仮に法が解釈や運用を要せずに、すべての事案、あるいはほとんどの事案に対して、画一的な結論を導くことができるのであれば、このような正当化は根拠を持つといえるのだが、これは事実と異なる仮定である。もしそのような法的な思考過程、論証仮定が存在するのであれば、裁判の実務のほとんどの部分は、コンピュータープログラムに置き換えることができるというべきだろう。もちろん、そんなことは不可能である。法令の集合に判例を加えた法の概念の体系は、複雑であり、互いに矛盾する要素を包含し、それらを自在に駆使することにより、どのような結論をも導くことができる背景になっているというべきであろう。その意味では、重要なのは結論ではなく、結論を導く思考過程である。複雑な法体系は個別の事案に対し、どのような結論をも引き出せるだけの重層的な包容力を有している。

法解釈権の独占の危険性

 これは、裁判という権力行使の仮定に本源的に含まれる危険性を暗示するものである。非常に多くの場合、有用なものは危険性をはらむものである。裁判過程が危険性をはらむことを、他の事情から特別に切り離して強調する必要はない。前述のように、ここで忘れてはならないことは、人々が裁判の誤判で失うものは、非常に多くの場合、人生であるという点である。裁判所という権力機構は、法の解釈により、ほとんどの人間について、彼・彼女を犯罪者にすることもでき、またその逆も言える。そのような権力の行為が不当なもの、でたらめなものであれば、その弊害は深刻であるというべきである。どのような有用な器具でも、危険性をはらむのだから、危険性に対する対策が要求されるのである。裁判に対し、そういう対策は取られているのだろうか、あるいは取られてきたのであろうか。

権力の危険性を抑止する方法

 一般に権力の弊害に対する対策は、流血を伴う困難なものである場合が多い。権力の弊害は、たとえば君主制においては暴君や暗君が出現することにより、顕著な害悪をもたらす。だから、君主制においては、暴君、暗君の出現を防止できるよう、君主の幼少時から名君に成長することを期して教育し、暴君・暗君が出現した場合には、これを補い、時には排除する賢臣の役割に期待がかかる。これは、時代劇の中だけに見られる設定ではなく現代社会でも企業などの下位の社会の単位においては、継続している状況である。

 しかし、西欧社会の文化から引き継がれた近代民主主義においては、権力の暴走、誤作動は名君の決断ではなく、権力を監視し、誤作動を抑制する市民的な機関の役割を通して、完遂されることが期待されている。ときに法曹界が権力の暴走をチェックする機関として機能することが期待されることがあるが、法曹界自身が権力装置として暴走したときに、これを抑止する中立的な機能はほとんど存在していないか、名目的にしか存在していないように見える。民主主義の政体では、君主制の方法論ではなく、市民による権力の監視・管理の方法論が取られるべきであり、そうでなければ効果を期待することは難しいのだから、司法権力の暴走に対しても、これを抑止する機関が必要である。

 しかし、言うは易しだが、このような機関をどのように実現するかというと、これは気の遠くなるような難問である。立法・司法・行政の権力分立の政体に対し、屋上屋を重ねるように監視機構を設置しても、これに実効的な権威を与え、これが権力機構の利害に取り込まれないように配慮するとなると、想像以上のマンパワー、エネルギーが要求されることになるだろう。どうやってこれを確保すればいいのだろうか。

少しだけ具体的な考察

 たとえば、陪審員制度を考えてみた。刑事事件を例に取ると、日本の刑事訴訟の有罪の割合は、誤差の範囲を捨象すると100%であるといってよい。日本の警察や検察の機構や構成員が有能であり、また慎重であるので、有罪になると確信できる事案しか立件されないからであるという反論もあるだろうが、このような環境下で多数の訴訟を捌いていく裁判官の立場を考えれば、その判断は検察が決定した判断に強く依存することになり、検察が確実にある程度の割合で提出するであろう冤罪や不当な起訴に対する監視の能力は失われるだろうことが容易に想像できる。

 だから、裁判員のように、裁判官の補完以外には多くを期待できない制度ではなく、検察が立件した犯罪の事案が、合理的な根拠に基づいた事実と認定できるかどうかだけを、専門に審査する陪審員の判断は、少なくとも検察官と極めて近い身分にある裁判官の理性よりも自由で独立した視角から、犯罪の証明の妥当性を判定することができるのではないかと思われる。

 裁判の判決がでたらめな判断を反映している可能性に対するチェック機能としては、他にもいろいろな機関の設置の提案が可能だが、決定的に有効な方法を早期に見出し、これを実際の制度として確立することは、難しいと予測される。しかし、少なくとも、民間人の有志による、裁判の実態への監視と批判を強化することは、多額の費用や公的な手続きを要せずに実現できるものであり、その効果はどのように悲観的に見ても、マイナスになることはありえない。裁判の正常化を望む人たちは、このような可能な手段をまず講じる必要があるし、現状ではそうするしか方法はない。千里の道も一歩からである。この言葉は、絶望的なもどかしさを感じさせるとはいえ、この言葉に希望を見出すしかないのだと思える。

巫召鴻
2010/05/17

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